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「インドのある夏の一日」 早朝。 それ程遠くない所から、音楽とドラムの音が聞こえる。 この音でめざめるのは、心地よい。 まだ暑さがやってこない、日が昇る前の快適なひととき。 その音は、毎日聞こえるわけではない。昨日、どこかの村の長老が亡くなった合図である。 今日一日、夕方まで、歌と音楽、踊りが続く。 死者を祭る儀式だ。 わたしはドラムの音に魅了された。 感じるままの素直な表現が、自然なリズムを生み、インパクトと活力を感じさせてくれる。 男も女も、大人も子供も、牛や犬もその音と一体となり、 感じ、連帯感や調和を生む。 昼。 太陽が、頭上から容赦なく突き刺す。風はない。 しかし、ありがたいことに、日陰は程よく涼しく、ホット一息つける。 長く暑い午後の始まり…。 人々は家に戻り食事をし、一眠りする。 あるいは、食堂でほとんど毎日同じようなランチセットを注文する。 子供たちは屈託なく声をかけてくる。 大人は無愛想だが、ひとたび打ち解けると、家に招待され、食べ物のもてなしを受ける。 男たちは、路上で野菜や果物、チャイやサモサを売り、 主婦は、一日中忙しく動き回り、牛は堂々とゆっくり車道を横断する。 町のメインストリートは、いつも人でごった返し。騒音と無秩序な動きが寝につくまで続く。そしてまた、たくさんの路上生活者が、たくましく生きている…。 夜。 太陽が沈んだ分だけ涼しくなったが、まだまだ余熱は続いている。 ここではバスに乗って移動する人が、昼間以上に多い。 バスが到着するたびに、大量の乗客が入れ替わる。 開けっ放しのドアから身体が半分出ている人、中に入れずドアのバーに捕まる人、 はたまた、バスの背面や屋根にへばりつく人がいても、構わずバスは発車する。 膨れ上がったバスの中には、小さな子供連れの家族も多い。 なぜ、毎夜々、長距離バスで、これほど多くの人が移動するのか不思議だ。 夕食後、チャイを売る屋台には多くの人々が集まる。そこは一種の社交の場。 しかし、女性の姿は多くはない。屋台のそばにあるベンチに、女性が座る姿を見かけない。ましてや、男性の隣に座ることは許されない。 シヴァ神信仰の町では満月のたびに、たくさ...
7月18日 (59日目) 今日はサダナでの最後のワークの日。夕食は恒例のフィルムイベントがあった。夕食後、セバスチャンとマッドプールの近くに座り、一日の終わりを、そして私の最後のサダナの夜をねぎらってくれた。 私の心境を察 してくれて さりげなく誘ってくれたのを感じた。昼間の暑さからようやく逃れ、柔らかな風が疲れて火照った身体を安らげてくれ、蛙の鳴き声と遠くから聞こえるドラムの音が、夜の静寂に更なる深みを与えてくれる。なんと平和で心安らぐひと時だろう。何度もここで夜を過ごしたが、今夜はいつもよりも心地良く、そして、今までになく感傷的になった。特別なことは何も話さず、ただ静かにゆっくりと時間の流れを楽しんだ。今始めて、 2 ヶ月経ったのだという実感が湧いてきた。そして、 ここでの体験がどのくらい貴重なものであったかというのは、今はまだはっきり分からないが、恐らく後になって気づくのであろう。容赦なく照りつける太陽と共に陽気に逞しく生きる人々や、決して期待を裏切ることがなかった明るく大きな月と星に囲まれて過ごした森での生活を通し、飾ることなく自分をさらけ出し、また、自分自身と向かい合うことができた。衣・食・住という生きる上での基本的な人権すら獲得できていない人々が多く存在す る環境において、身体の清潔を保ち、常に空腹が満たされ、安心して眠る場所があった私に、これ以上何を望めよう。しかし、わずか半世紀前には私たちもかなり質素な生活をしていたはずではないか。無駄なモノと消費に溢れ、便利さと快適さのみを追求してやまない生活に浸り、大切な心の問題や人間関係に歪みが生じてきているのに気付いてはいるが、もう元に戻ることはできない。 ボランティア活動とは、自分ができる事を提供するだけだと思っていたが、逆にそれを遥かに超えるお土産を頂いたようだ。ここまで書いて、私は急に自分が恥ずかしくなった。というのは、ボランティア活動の名の下に、現地の生活にズケズケと入り込み、いっときの好奇心から無責任に挑発し、かき回してしまったかもしれないという不安を感じたからである。彼らはいつも親切であった。それは対個人としてではなく、結局は、私たちは通りすがりのお客さんであったのかもしれない…。 明日は早く起きて荷物の準備をしなければならない。さて、大好きだった私のハットに戻ろう。
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7月17日 (58日目) 午後、愉快なフランス人セバスチャンとオーロビルにあるアクセサリーのお店へ行った。彼の婚約者への指輪を注文するためだ。デザインは既に考えてあり、指輪のトップにここの地元の葉っぱ を二枚あしらったもので、内側には彼女の名前をタミル語で刻んでもらうという。 これまで何度も彼から彼女の事を聞いており、なんて優しいんだろうとちょっと羨ましかった。来月には彼女もここを訪れるらしい。そのお店に行く前にベーカリショップでお茶をしながら、彼はサダナフォレストの基本的な仕組みを図を描きながらわかりやすく説明してくれた。大学で環境問題を研究している彼は、ここではとても積極的に色々なことに取り組んでいる。私もだいたいのことは理解していたが、彼の説明でさらに納得することができた。大きく分けて二つのことである。一つはコミュニティーでの水の仕組みであり、もう一つは植林の仕組みである。 1 )毎日 2 回ソーラーパネルによって蓄えられ た電力を利用し、地下水をポンプで汲み上げ、貯蔵タンク( 高さ約 10 メートルのウォータータワーのトップにある)へとホースで運ばれる。タンクに溜まった 水は 重力により別のホースを通って運ばれ、日常生活用に使用される。ホースは長く重たく移動は簡単ではないが、必要に応じてズルズルと引っ張るしかない。しかし数カ所に水がめがあり、少量の水はそこから柄杓で使用する。飲料水用には濾過タンクがある。電力が不足した時は発電用の自転車をこぐ。 2 )荒廃した土壌でも逞しく育つアカシア(オーストラリア産)を 5 年位前に植え、現在それが大きく成長してきている。そして土壌がようやく復活してきたところへ今度は地元の木を植えようとしている。現段階では水分確保が必要であり、毎朝の穴堀りはとても重要な作業である。大きな四角い穴を数カ所堀り、掘り出した土で周囲を帯状に固め、水を逃がさないようにする。 7 月後半にやってくるモンスーンは森にとってはとてもありがたい。それまでにはなんとか 3 つの穴が完成しそうだ。そして、たくさんの小さな穴は植林用である。しかし、アカシアと地元の木が混在するとお互いが反発するため、今後はアカシアを徐々に減らしていく。
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7月16日 (57日目) オーガナイザーからサダナフォレストのポスターの制作を頼まれた。オーロビルのインフォメーションオフィスに置くためだ。デザインの仕事は私の得意とするとろであり、喜んで引き受けた。
7月15日 (56日目) 今朝、ウエイクアップコールがなかったので、当番のフランチェスコに替わりにやってあげた。しかし、1/3位の人が起きるのが遅かった。その後、昨夜近くの街で、私たちの仲間のボランティア二人がモペットで事故を起こし、そのうち一人は病院へ運ばれたということを知った。ここのオーガナイザーは昨夜から患者に付き添っている。彼らは二人乗りをしていて、運転手には幸いにも怪我はなかったがかなり落ち込んでいる。コミュニティー全体が静まり返っている。無理もない。患者は人気者のドイツ人の若者であり、みんなとても心配しているからだ。そのため今日一日も、通常通りのタスクをこなしたが、いつもよりは静かではあった。何かモペット運転についてのいい教訓かもしれない。
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7月14日 (55日目) 午後、トイレのコンポース作業を私と一緒に行ったアメリカ人女性が去った。ここでの生活の中で、最も興味深い仕事だった。いろいろなおしゃべりをしながら、約3時間、長い棒と長いシャベルで深い穴に向き合った仲だ。彼女はサダナは今回で二度目であり、オーガナイザーとはかなりウマが合っていた。 夜、彼が電話をくれた。いつになく話しに勢いがあった。私の行動をこれまで以上に評価し、励ましてくれた。日本社会の中での私の行動は、周囲を戸惑わせてしまうことが時々ある。いい意味では「風変わり」だが、悪い意味では「ちょっと変」なのはわかっている。それは、立場、状況、経験、年齢等を総合的に評価した時、恐らく多数派ではない選択をしているのであろう。彼自身も少数派の中で生きているがそれに自信を持っているため、私のことを誇りに思っているという。そして、早く会いたいと…。何とも嬉しい電話だった。
7月13日 (54日目) お昼頃、オーロビルのゲストハウスに滞在している日本人女性二人がコミュニティーを訪ねてきた。前述した日本人男性オーロビリアンから紹介されたからである。私も話は聞いていたので会えるのを楽しみにしていた。ランチを一緒にとった後、コミュニティをざっと案内した。彼女たちのゲストハウスはここに比べるとかなりモダンであり、自由時間もたくさんあるため、ここでの生活にはさすがに驚いていた。その後、今度は私が彼女たちの生活を知りたく一緒にゲストハウスに向かった。そこでは、さらに韓国人学生二人と知り合り、午後を楽しく過ごした。彼らは環境問題を勉強しに来ていた。 今日は、日曜日。私にとっては最後の夜のミーティング。そして、ここに居るのもあと5日間。後半はあっとう間に過ぎてしまった。
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7月12日 (53日目) コンタクトレンズを買う為と、写真の現像をしに、午後ポンディチェリーに出かけた。その写真は近くの村で知り合った地元の人たちを撮ったもので、私からの彼らへのささやかなプレゼントにしようと思う。 夜は近くの森の中にある家でジャムセッションがあるという。ここのオーガナイザーの知り合いであり、私たちも招待されたという話を朝聞いていた。夕食後、その家の人からかかってきたきた電話にたまたま私が応対し、時間と場所 の確認と、そして、早くみんな来るように 伝えてほしいとの依頼だった。しかし、伝えるにもほとんどの人は外出していない。そこで責任を感じ、一人で行くことにした。森は暗く、懐中電灯と自分の足を頼りに進んだがそれらしい家は見当たらない。そこへちょうど2台のバイクが近づいてきたので尋ねると、彼らもそこへ行くというので連れていってもらった。 到着してみるとそこは、今まで私が訪れたインドのどの場所とも異なっていた。人も雰囲気も建物もインテリアも…。全く別の世界のようであった。彼らはミュージシャン関係の集まりであり、ラジオ局の人も来ていた。いわゆるクリエイティブな仕事で生活をしているため、一般的な村の人たちとはかなり異なる思考や趣味、スタイルを持っていた。お酒やタバコも吸い、日本のどこかのバーにいるのと変わらなかった。そこで私は勧められたヴォトカを少し頂いた。演奏はほどなく庭で始まったが、わたしたちのボランティアメンバーはまだ誰も来ない。2時間後位でやっと数人来たが、私はちょうど帰るところだった。何とも不思議で気持ちのいい夜だった。
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7月11日 (52日目) 7月に入ってから、コミュニティーでは毎週金曜日夕方からフィルムを上映することにした。フィルムと夕食を無料で提供し、このコミュ二ティーの活動を 多くの人に知ってもらい、理解と協力を求めるのが趣旨。フィルム鑑賞後は食事をしながらの会話を通し、友好関係を深めようとするもの。 フィルムのテーマは様々な地域における環境問題に関するもの。オーロビルの案内所に情報提供をしておいたので、初回からたくさんの人たちが来た。そこで、その食事の準備に、通常のランチ準備と並行して夕食の準備も行う。いつもは3人で足りる料理当番もこの日は10人位必要である。今日のレシピの目玉はホムス。その他、キャベツの塩付、野菜と豆のスープ、サラダ、ベーカリーで買ったパン等。私は午後3時から料理に参加するので、またチベットレストランでランチをしにモペットを走らせた。そのレストランでカメラを置き忘れてきたのを後日気付いた。
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7月9日 (50日目) 私はオーロビルにあるベーカリーのうちの一つが好きで、ここのコミュミティーでもよくパンを購入をしている。午後、そこでお茶をしていたら、同じボランティアの一人フランチェスコがやって来たので、その後一緒に、近くの楽器を作っているワークショップを訪ねた。彼もまたユニークで人懐っこく、女性を楽しませることに関しては天性が備わっている典型的なイタリア人。 夕食は朝から決めていた、チベットレストランへ行くことにした。2週間前にチベット料理を初めて食べたてとても気に入ったので、今日は別なレストランでも試してみたいと思った。Beef thantuk(ヌードル)とCheese omletts。やっぱりおいしい! 次回はモモ(水餃子)を食べるぞ!
7月8日 (49日目) 現在のメンバーの内、私が最初に着いた頃からいる人は約1/4である。アメリカ人カップルのエバとポールはとても穏やかで感じがい。彼女の方は希望者にヨガを教えてくれるというので、参加希望の意思表示をしておいた。また、大学院生のフランス人女性二人はマーケティングの研究をしており、それをあまりに主張しすぎたせいか、単にボランティア活動を利用しているに過ぎないという感じをもたらしてしまった。4日位で何やら言い訳をして去って行った。次々と変わっていくメンバーと新たな出会いが始まり、協同生活をする。何とエキサイティングな日々だろう! 今回の海外ボランティア活動参加への強力な刺激を与えてくれた友人からのメイルで、彼女も今、別なボランティア活動で南フランスにいるという。おお、刺激がエスカレートする! ありがとう。 今週 の私のタスクはまたしてもウエイクアップコール。これで 3 回め。一番お気に入りのタスクである。
7月6日 (47日目) 朝から暑い! 日本を発つ前、インドに長く居た知合いから、インドのこの時期の気温は45度位だと聞いていたが、今年は40度前後なのでまだましなのかもしれない。今日は日曜日。午後、3人でポンディチェリーの「サンデーマーケット」に行ったみたが、特別な出し物はなく、ちょっとがっかりだった。 使い捨てコンタクトレンスが足りなくなってきた。どうやら計算を間違えて持ってきたようだ。メガネを持ってこなかったし、レンズなしではかなり不安だ…。 約1ヶ月半ここで生活してみて、様々な興味深いことや考えさせられることが多くあり、現実の生活の中では味わえない貴重な体験をしているという実感はすごくある。しかし、時には一人になりたくなるのも事実である。たぶん慣れてきたせいであろう。夕食後、時々近くの村へ何人かでチャイを飲みに行ったり、みんなで火を囲んでとりとめもないことを話したりすることもある。でも一番くつろぐのは、一人で本を読んだりiPodで音楽を聴いて過ごすことであり、最近それが特に楽しみになってきた。私は彼の本を毎日少しずつ読んでいる。 その本の出版直後に日本を発った為、まだじっくり読んでいなかっのである。 3年前に約5ヶ月間、自転車で日本縦断(約6000マイル)した時の記録である(“Japan:6000miles on a bicycle”ISBN 978-1-933606-14-2)。毎日、寝る場所も定かでない道中の彼の胸の内を素直に綴っているだけに、読者の私にはガンガン響いてくる。恐らくこの場所で読んでいるから余計に共感するのであろう。その中でも次のフレーズは私も十分うなずける。“When you travel, remember that a foreign country is not designed to make you comfortable. It is designed to make its own people comfortable.” -Clifton Fadiman
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7月4日 (45日目) ほとんど眠れない状態で朝5:30にポンディチェリーに到着。6日前ここを発つ時に入ったビーガンレストランへ立寄り、バイクで案内をしてくれた彼を待った。お礼と、途中ではぐれてしまったことの説明を言いたくて…。その後、ビーチの洒落たフレンチカフェでのんびり朝食をとり、街をぶらぶらし、夕方にサダナに戻った。たかだが6日しか経っていないのに、既に私には「家に戻った」という安堵感があった。メンバーがまた変わっており、オーガナイザーが暖かく私のカンバックを歓迎してくれた。ありがたい! ハットをまた移ることにした。ここでは空いていれば、どのハットに泊まってもいいことになっている。もう既に一度変えているが、今度はちょうど空いたばかりのシングル用にした。今までの中で一番お気にいり。でも、どのハットも暑いのは同じ。ほとんど毎夜、寝苦しさとの戦いであった。ときにはハンモックでも寝るが、それはそれで蚊に悩まされる。
7月3日 (44日目) 朝から少し熱があるのと、胃も少し痛い。それでも、最後の日なので、ディパックが市場へ連れて行ってくれるというので喜んで出かけた。戻ってからも具合はよくならず、夕方までずっとベッドに入っていた。 21:30発のバスでポンディチェリーに向かう。ここでもまた自分がめざすバスを見つけるのは至難の業で、なんせ明確なバス停がない。とにかくバスの運転手や係りらしき人に訊きまくったが、返ってくる返事は様々。発車時刻間際に何やらそれらしき行き先を叫んでいる人に気づき、急いで確認してぎりぎりにバスに乗ることができた。全く一瞬たりとも気をぬけなく、指定席券を持っている意味がない!さらに、バスの運転はひどいもので、座席で何度もジャンプさせられた。
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7月2日 (43日目) バンガロールには寺院が数多くある。今日はその内の一つに、ディパックのお母さんが連れていってくれた。しかも彼女がサリーを貸してくれ、感激!というのも、寺院参拝にはきちんとした装いが必要だからである。 バンガロールの 小さな丘に建つ壮大なイスコン寺院 (International Society of Krishna Consciousness - ISKCON)。1966年に設立された、ヒンドゥー教に出てくるクリシュナ神を祀る団体が主催する寺院。 駅から北に 4km ほどの場所で、私たちはバスを乗り継いで行った。それにしても、日本人の顔で着慣れないサリーと全く不釣り合いなサンダルで歩く私は、さぞかし滑稽な姿に映ったであろう。途中、着崩れたサリーを見知らぬ女性が正してくれた。この寺院は建物自体と、さらに敷地もとても広く、また、多くの参拝者の為、参拝時間が決められており、入場制限もされ ていた。建物の内部には食事をする場所やお土産店も多くあり、なかなかの商売繁盛 (?) だった。そのため、時間はあっという間に経っていた。インドの寺院はどこで   も敷地内から裸足でなければならない。寺院によっては履物を預ける際に料金を支払う必要があり、これには正直言って納得しなかった…。 明日バンガロールを発つことにした。そこで夜、家族のみんなへのお礼として食事に招待した。ところが、お勘定の段階になると既に彼らが支払った後だった。彼らは絶対に私に支払わせようとしなかった。インド人は人を招待したら、とことん親切にもてなすというのを、後日、他の人から聞いた。感謝の気持ちがうまく伝えられず歯がゆい思いをした。本当にありがとう!
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7月1日 (42日目) 早朝の電車で、バンガロールより南西約140kmに位置するMysore(マイソール)へ向かった。インドで初めての電車、約3時間。マイソールでの見所の一つは、何と言っても豪華絢爛マハラジャパレス。まず、入り口を間違え、かなり遠くの別の入り口を指差されがっかりしていたら、いくらかの“お志し”次第で門を通してくださるとのご提案。なるほど、、。 それ以外にも街や市場を見てまわったが、この日は雨が降って蒸し暑く、しつこいドラッグ売りも多く、何故かイライラすることが多かった。そこで、一泊するつもりでいたが夕方には戻ることにした。帰りの電車をプラットホームで待っている時に話しかけてきた小学生のとびきり可愛いインド人の女の子と、その妹とお母さんと一緒に同じボックスシートに座り、車中いろいろお話しができ、退屈な時間を楽しく過ごせた。車内はとても混んできて、座席の上の荷物置きの棚に、あたりまえのように横になっている人や、開いている座席にサッとハンカチを広げ、後から来る家族のために座席を陣取る人(当然、言い合いが始まる)等、乗客の車内マナーはいいとは言えないが、バス同様ここでも家族連れが多く、長時間の移動に誰もが疲れきった様子であり無理もないと思った。このような混んだ車中にもチャイ売りが大きな態度と威圧感のある声でやって来る。電車は汚れていて古く、窓の隙間から雨が入り込む。しかし、インドの電車に興味津々だった私にはとても満足な体験だった。
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6月30日 (41日目) 早朝6時から近くの公民館で毎日ヨガが無料で行われている。ディパックはほとんど毎日行っているので、私も一緒に連れていってもらった。まだ暗くジャケットがないと寒く、何よりも眠かったが、興味津々だったので頑張って起きた。男性のインストラクターで、動きがとても早く、まるでストレッチ運動のようであり、寝起きの私には少しきつかった。以前スポーツジムでヨガのレッスンを受けたことがあり、いろいろなスタイルがあるということは知っていたが、こんなにキビキビとした動きには驚いた。 昨日と今日で街の大まかな場所を観光した。ここでもオートリキショウとの交渉は必須である。そこで、ふと悪知恵が浮かび試してみた。というのは、路上で物売りをしている若者に値段交渉をお願いしてみた。地元の人と観光客に対する値段が異なることは当たり前だからである。私の出せる最大金額と彼の交渉金額の差額を彼に支払うとの条件である。すると、彼は心良く引受けてくれ、さらに差額の金額も受取らなかった。せめて彼の売っている小物を買おうとしたが、そんな暇もなくリキショウは発進してしまい、彼に対して罪悪感を感じ、後味の悪い思いをした。 さて、都心部を離れた市場に行くと、やはり地元の生活の匂いがある。人、牛、音、食品、服、雑貨等が全て無秩序に入り混じった、いわば混沌とした空間で活気づいているのを強烈に感じる。 夜、ディパックがバーに連れて行ってくれた。都心部のわりと新しい洒落たバーだが、お客は少なく、女性は私だけ。女性が外でお酒を飲む習慣はあまりないとのこと。
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6月29日 (40日目) 予定より30分早い5:30にバンガロールに到着。まだ暗い。でも、オートリキショウやタクシーは、人が集まる場所にはどこでもちゃんと待機している。待合せの本屋の前でインド人の友人(ディパック)を待つこと1時間。街はまだ静かで人もほとんど見かけず、まだ暑くはない。空が明るみ出した頃、チャイ売りが来たので一杯頂いた。銀行の守衛らしき男性が大丈夫かと気遣ってくれた。 バンガロールは、インド南部・カルナータカ州の州都であり、人口620万人(2007年現在)に達し、インド第三の人口である。文化・教育・経済ともに高い水準にあるが、発展途上国の巨大化する都市の常として、大気汚染、交通渋滞、犯罪、スラム化の問題が発生しているという。今私がいる道路はM.G Road(Mahathma Gandhi Road)というメイン通りの一つで、道幅が広く、大きなモダンな店舗やよくあるフランチャイズの店、銀行やバーも多く、一見どにでもある都市である。都心部では、女性のサリーやチュリダの姿は多くはない。私の着古した服とサンダルが恥ずかしくなった。 その後、ディパックのバイクで、お母さんと妹の3人暮らしの家へ向かった。大きなココナッツの木のある二階建ての家で、私には一階の一室を提供してくれた。夜は映画館へ行き、9時から12時までの長時間インディアンアクションコメディーを観た、というより、観客はスクリーンの登場人物に入り込んでいるかのようで、笑いも罵声も激しく、エキサイトし、見終わった時には誰しもがエネルギーを消耗しつくしたようであった。
6月28日 (39日目) 今夜からバンガロールへ一週間の小旅行へ向かう。バスの出発時刻は夜10時だが、ポンディチェリーで用事があるのと、ゆっくりしたいのとでお昼前にはコミュニティーを発った。数日前、インド人のヨガの先生が、バンガロールに住んでいる彼の友人にコンタクトをとり、私がバンガロールに行った時の世話を頼んでおいたという。おお、何と親切な!お言葉に甘えることにした。バスターミナルの一角にあるビーガンレストランでランチをとっていたら、そこのウエイターとふざけて簡単なフランス語で会話を始めた。そのうち、彼がバイクで街を案内してくれるというので、彼の仕事が終わる数時間後、公園で落合った。2〜3時間の快適なドライヴの後、私がATM機に行く為にバイクを止めて以降、彼とはぐれてしまった。連絡をとる手段もなく、お礼もできずとてもはがゆい思いをしたので、バンガロールから戻ったらまたそのレストランに寄ってみようと思う。 さて、バスは明確なバス乗り場やアナウンスもなく到着し、客を乗せ、そしてさっさと発つ。だから私は前もって同じバスに乗る人を捕まえて、傍を離れないようにしていた。全席指定の座席はほぼ満席、冷房なしだが窓を開け放している為暑くはない。人の声もテレビの音量も静かでありほっとした。昼間の耳をつんざく音量や怒声を聴いていたので少し心配していた。夜中12時頃にトイレ休憩があった。ここでも何のアナウンスもなく突然止まり、もしも眠っていたら気付かなかっただろう。トイレには既に行列ができていて、バスが出発する合図らしきものがあってもまだ並んでいた。暗く汚れたトイレに焦りながら駆け込み、猛スピードで戻った。何と忙しい休憩だろう!しかし、誰も文句は言わない。
6 月 27 日  (38 日目 ) 復路の飛行機の日程を変更しよと思う。 7/23 で予約をしていたが、 7/21 に発ち予定より 2 日早くタイランドに着きたい。というのは、たまたま友人も同じ場所に行く為、そこで落ち合いたいからだ。チェンナイにある航空会社へ電話で変更を申し出たら、 2 日前、つまり 7/19 午前中にオフィスに来て手続きをしなくてはならないと言う。 2 日前に行く必要が理解できず何度も交渉したが無駄だった。チェンナイのオフィスまでバスやタクシーで約 4 時間を往復したくはないので、結局、ここを 19 日の早朝に発ち、チェンナイに一泊するつもりだ。 これまで何度か E-mail で連絡をしていたが、今日やっと会えた人がいる。オーロビルに長く住んでいる日本人男性である。すばらしい家具を作っており、ちょうどその時は 2 人お弟子さんがいた。インドに来る前から彼の存在を知り、是非お会いしたかったので、彼のワークショプを訪ね、お話しができたことは感無量だった。穏やかで親しみがあり、オーロビルの多くの人は彼を知っている。オーロビルに定住するには審査がある。街に貢献できる何かを持ち、オーロビルの理念を理解し、 人々との調和の中で暮らして初めて住人として迎えられる。詳細は後で。
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6 月 25 日  (36 日目 ) ワークの中で私が好きなのは、何と言っても朝の森での作業である。私の身長程ある重い鉄のバーを、少しだけ持上げ垂直に落とすと、その重みで土が砕ける。落とす時には決して力を加え過ぎてはいけない。腰を痛めてしまう。砕けた土が溜まったらシャベルですくい出す。ただひたすら穴を掘ることだけを考える。溢れ出る汗と喉の渇き。この単純作業にたまらなく達成感を感じる。もう一つ好きなワークは、ここの全般的作業管理を仕事としているインド人男性のアシスタント作業である。彼はここで働くたくさんのインド人に対してのマネジメントもしており、その日の作業状況によって何人かのボランティアが必要な時は私たちにリクエストをする。そんな時は私はいつも真っ先に立候補する。彼の行動は見た目にはゆっくりだが、まずじっくり考え、先を見越し、動作に無駄がなく、迅速に行われる。片言の英語とタミル語での会話だが何故か心が通じ合える。私たちへの仕事の指示もユーモアで穏やか。私たちが手伝える仕事は彼の 1/10 ぐらい。というのは、やり方の見本を見せてはくれるが、結局は自分でやってしまうから…。 バンガロールへは 6/28 の深夜バスで発つことにした。午後、ポンディチェリーのバスターミナルでその切符を購入した。冷房なしの 8 時間の長旅。切符売場の人にトイレ休憩はあるかと訊いたら「ない」と言ったので、信用できず他の人訊いたら「ある」と言う…。最近はこんな事ではもう驚かなくなってきた。
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6 月 23 日  (34 日目 ) ここのオーガナイザーの友人のインド人男性の妹の結婚式に、私たちボランティア全員が招待された。朝 6 時に出発。盛装の必要はないが、失礼のないような服装で!との注意を受けた。実は、最近服装に関して、ローカルの人たちから苦情が入ったらしい。特に女性だが、暑さのあまり夕方や夜に外出する時などは、つい涼しげな格好をしていた。反省! 式は格式ばったスタイルの中でもカジュアルで親しみのある雰囲気があり、後方では生演奏が行われていた。ざっと見渡して 100 人は下らないと思う。ざわざわとした中で、特に司会進行のようなものはなく、席に着き、花びらが配られ、 20 分位の後、食事の部屋へ通された。食事は長いテーブルに横一列になって座り、バナナの葉の上に“ No,thank you ”というまで次々と料理が盛られていく。食事に時間はかけず、終わったらさっさと席を立つ。そしてまた、先ほどの式場に戻り、新郎新婦と写真を撮ったり、お話をしたり、あるいはそのまま帰る人もいた。簡素だが威厳があり、暖かみを感じた。ところで、このような結婚式はどの位の階層の人ができるのだろうかと、ふと興味を抱いた。
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6 月 22 日  (33 日目 ) 朝から街に繰り出したが、早すぎてまだどの店も閉まっていた。昨夜は久々に冷房の効いた部屋でぐっすり眠れた。一人 300 ルピーで私にとっては高めだったが、安めのゲストハウスに片っ端から電話したが既に満室だったので、まあ仕方がない。街の大きさは、バイクで一日回るにはちょうどいい広さであるが、私たちは徒歩で主要な場所を回った。ヒンドゥー教の寺院やアシュラムのもあればショッピングストリート、飲み屋街、フレンチスタイルのモダンなカフェやレストラン、ビーチ等、多様なものが混在していて飽きない。 コミュニティーに戻ると新しいメンバーが増えており、夜のミーティングで紹介された。今回はフランス人女性 4 人とオランダ人女性 1 人。このオランダ人(リンダ)も素敵な女性で、あっという間に私たちは魅了させられた。これまでにも様々な国を周り経験豊かであるにも関わらず、決して自慢せず控えめで静か、人の話しを敬意をもってきちんと聞く…。リンダ! 私は彼女と話すのが楽しみで何度もこの名を呼んだ。
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6 月 21 日  (32 日目 ) 土曜日なので、日本人の女の子と二人で、隣街のポンディチェリーに一泊し、のんびりしようと思う。ポンディチェリーは、タミル語で「新しい町」という意味。インド東海岸タミル・ナードゥ州隣接地域に位置する。元フランスの植民地。 17 世紀から 18 世紀にかけてフランス領インドの首府であり、その後も非軍事的な植民地として英領インドのなかでフランス領として存続した。あちこちのフランスの風情や文字が残っており、また、フランス人観光客も多い。だからと言って決してパリを想像してはいけない。あくまでもここはインド。オートリキショウやバイクや人々の凄まじい騒音やモノ売りはつきまとう。現在でもタミル語、英語とともにフランス語が話されており、もとはプドゥッチェーリ(タミル語)という名であり、これがフランス語に音写されてプーディシェリ( Poudichéry )となった。現在、フランス語ではポンディシェリ( Pondichéry )と呼ばれる。英語ではポンディチェリー( Pondicherry )と呼ばれ、日本の地図などではこの表記が多い。 ( 出典 :  フリー百科事典『ウィキペディア( Wikipedia )』 ) 。 2006 年 10 月から、都市名を元来のタミル語の名称であるプドゥッチェーリに変更になった。インドでは、地名の呼び名が新旧共存しているのを多く目にした。ムンバイ(ボンベイ)、コルカタ(カリカタ)、チェンナイ(マドラス)、プネー(プーナ)等。
6 月 19 日  (30 日目 ) VISA カードで現金が引き出せず、日本のカード発行銀行( U) に電話をした。まず最初に部署が違うとかで別な番号を伝えられた。次はいかにも若い声の女性で、内容を聞いてくれたはいいが、馬鹿丁寧かつスローな対応で、結局はカスタマーサービスに電話をするようにとのことだった。 3 回目、カスタマーサービスに電話をしたら、テープレコーダーの「…混み合っておりますのでこのまま暫くお待ちくださるか…」だったので 3 分待って電話を切った。大手銀行で、かつ、 VISA カードを発行しているという認識が全くない。それ専用の窓口があって当然だと思う。私の確認不足だったとしても、誰にでも簡単にわかるように表記する必要があるのではないか。日本の友人に事情を話してその銀行に行ってもらったが、やはり海外からの専用電話番号はなく、カスタマーサービスが窓口だという。暫し苛立ちが治まらなかった。それに対し、以前ロンドンで   VISA  カードの問題があった時の、日本の銀行( M )は対応がよかった。コレクトコールで同じ担当者が何度も素早く応対してくれた(落ち着いた感じの声の女性)。結局は銀行の問題というよりは個人の知識・経験・人間性の問題なのであろう。このような臨機応変な応対ができるのは若年層では困難。日本の企業は人材選抜時、何よりも若さ(年齢のみ)を重要視する。また、高齢者を軽視した社会風潮があるが、これはとても日本的なものであり、合理性・効率性・公平性のどれにも反することであることに、いい加減早く気付くべきだ。
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6 月 18 日  (29 日目 ) 今日は水曜日だが、ランチ後 6 人が、前述したシヴァ神信仰の町であるティルヴァンナーマライへ向かった。というのは今夜は満月だからである。彼らは、裸足で頂上をめざすとのこと。そこで、残ったボランティアはわずか 8 人(実際に食事をとった人数は 4 〜 5 人のみ)であり、夜料理当番だった私とドイツ人男性は、簡単なサラダのみを作った。人が少ないと寂しいがいいこともある。それはパソコンが簡単に使えることだ。今ここにはパソコンが一台しかなく、自由に使ってもいいのだが、誰かしら使っているため待たなければならない、特に夜は…。電気は自家発電であり、夜中は節電のためスイッチを切っている。ネットの回線速度はとても遅く不安定であり、快適さからは程遠い。それでも、メイルチェックだけなら我慢できた。私も最初はよく使っていたが、あまりにもストレスを感じ、街のネットカフェへ頻繁に行くようになった。よく行くネットカフェのハンサムな少年と仲良くなり、インドを発つ前日にはお花(プラスチックだったが…)をプレゼントしてくれた。いまは、ポンディチェリーで料理の仕事に就いたとのメイルが最近きた。なかなかのいい子だったなあ。
6 月 16 日  (27 日目 )   オーガナイザーに一週間の休暇の申し出をした。私はこのコミュニティーに 2 ヶ月間という約束でボランティアに参加する為に来た。しかし、約 1 ヶ月経とうとしている今、少しずつ考えが変わってきた。というのは、私にとってインドは初めてであり、 2 ヶ月間同じ場所だけで活動する以外にも、他の場所も知ってみたいという欲求がでてきたのである。また来られるかどうかもわからないので、この機会を有効に使いたいとの考えからだ。そこで、このコミュニティーによく来るインド人の意見等を参考にし、結局 Bangalore (バンガロール)に一週間行きたいと申し出たらオーガナイザーは快く承知してくれた。 10 日後に出発することにした。